2012/12/01

米市農園インタビュー

◎米市農園母屋にて、代表の高橋洋平さんへのインタビュー

2012年11月某日、和棉組の見学とともに米市農園代表の高橋洋平さんにお話を聞かせてもらいました。米市農園の歴史や成り立ち、自然農との出会いなどについてうかがいました。

――米市農園の成り立ちを教えてください。

ここは母方の祖母の家です。母の世代は三人娘で、高橋はいちど絶たれちゃったんですよ。でもうちの母親だけ、末っ子なんですけど、この近くに住んで家の手伝いをしていたので、結婚相手に同じ高橋という相手を選んだんです。この家でも動きやすいように。だからうちの母がここを継いでいく形になりました。

うちの家は「市衛門」というのが代々受け継がれている名前で、秀吉が攻めて来たときに、兵を500人連れて迎え討ったとか、当然負けたんですけど。明治の初年には、陸奥宗光に連れられ、アメリカへ留学していました。

そういう感じで、この辺ではずっと歴史が続いている家で、ずっと米屋をしていました。お米を集めて、酒造りをしていたんですね。お国に上納するお米を集めたり、道を作ったり、小作人をつかってお米を作ったりもしていました。

祖父はこの家を親戚に住まわせて東京で進学し経済連盟(戦前の経団連のような組織)の調査部長をしていましたが、大阪に転勤になった時、親戚が銀行(前、和歌山相互銀行)の倒産に引っかかり、家が競売にかけられてしまった。その時に祖父はこの家を買い戻す形で帰ってきました。

――家が競売に。ドラマチックですね。

今度は僕の家の話。僕の家は隣町の岩出にありました。こっちに移ってきたのは高校の時です。父は自営業をしていて、いろんな事業をやって、最後は服の卸売りに落ち着いたんですが、不景気で、このままじゃこれから先生きていけやんな、ということで、農業をはじめたんです。そのころは、この近くにある直売所に卸す切花を作っていました。農薬をやって、化学肥料をやってという、ふつうの慣行栽培です。

父と母で農業をしていたんですが、数年したとき、父の病気が発覚しました。癌ということで。それが僕が高校二年生のとき。そこから父が勉強をはじめて、癌を克服するために、玄米療法にたどり着きました。でも一人でするのはいやだからといって、家族みんなですることになりました。そのときに、無農薬の野菜というのにも、興味を持ち始めました。ここまでが家族の生業かな。

僕、といえば、父がここで農業をしはじめたのが、中学校のときでした。そのころはネットゲームばかりしていて、特に成績はよくありませんでした。特に、というか、よくなかった(笑)。近くの便利のいい高校に入ろうとしたんですけど、担任の先生に「止めとけ。奇跡的に入れたとしてもまず上にはあがれやん」と言われて(笑)。農業高校をすすめられて、なんとか入ることが出来ました。

農業高校は、教科書の授業といっしょに、農業の授業もあるんです。大根の種をまいたり、ほうれん草の種をまいたり。だったらここでも畑があるからやってみようかな、と野菜を育て始めました。でも野菜できたのはいいけど、売るところがない。近くの直売所で売るのもいいけど、もっと違う売り方を考えようということで、あちこちのイベントに出店するようになりました。そのときに出会ったのが伊川健一くんです。僕らの隣が伊川くんのブースで、そのときはじめて、自然農っていうのがあるのを知ったんです。自然農とはなんぞや、ということで、伊川くんのところにいったり、川口さんの赤目自然農塾に、月1回通うようになりました。

それで、すごくびっくりしたんですよ。農業高校で、農業を教えてもらうんですけど、農薬をやる、化学肥料をまく、草をとる、耕す、そういう農業しか教えてくれないから。家では無農薬だったんですけど、それも既存の肥料の与え方を出ない。それとはまったく別のやり方で、野菜が育つっていう新しい価値観に、すごいびっくりしたんですね。つきつめていくとお金を中心としない考え方っていうものに、すごく惹かれたんですよ。そのときに玄米療法をはじめた父とすごくシンクロしたっていうか。僕はやっぱり、そっち側で生きて生きたいなあと思って、自然農でやりはじめようと思いました。それが今から十年前。

――洋平さんは何年生まれですか。

1985年。昭和60年。いま27歳です。そのときは17歳でした。高校2年生。

――高校に行きながら、野菜を作ったり、販売したりしていたんですね。

そうです。伊川くんも、高校2年生のときに自然農に出会ってるよね。その頃は姉といっしょに農業をしていました。金魚の糞みたいに、姉の後ろにくっついて。僕は五人姉弟の長男で末っ子で、上四人が全部姉です。農業をしていたのは、三番目の姉で、パン屋で修行していたんですが、やめて帰ってきて、畑をしていました。

高校三年生のときに、父が亡くなりました。余命一年といわれていたんですけど、宣告されて一年三ヶ月。玄米で三ヶ月寿命がのびた(笑)。でもお母さんから言わせると、癌で亡くなった親戚をいろいろ見てきたけど、お父さんがいちばん楽に死ねたと言っていました。玄米のおかげやねって。

でもなにより、玄米で僕らが体調が良くなったんですよ。そのときはいちばんストイックにお菓子も肉も食べていなかったんですけど、すごく体調が良くなって。すごいパワーやなっていうのを感じました。やっぱりこっちがいいなっていうふうになりましたね。いまはいろんな考え方があるから、お菓子も肉も少し食べるようになったんだけど、昔はストイックでした。

こういった大切なことっていうのは伝えていきたいなっていうのがあって、体験農業をはじめました。月一回の野菜教室です。命のありがたさとか、耕さないとか、自然環境に負荷がかからないあり方とか、健康に生きていくことの大切さを伝えていくことをはじめました。

僕は高校を卒業して、園芸の学校に進学したんですけど、授業の内容がいまいちしっくりこなくて、家の仕事が忙しくなったのもあって、一年で学校はやめて、家の畑をするようになりました。でも、こういう農業のあり方って、すぐに収穫に結びつかないんですね。家の仕事が、忙しくはなるんだけど、野菜が出来ない。出来ないことはないんだけど、収益に結びつかない。お金に結びつけるとか、生活できる対価に変えることが出来なかった。自然農の場合は、お金にかえていくなという部分もあるから、僕らもうまく動けなかったんです。

そうやって姉といっしょに、三年くらいやってたんですけど、姉もだんだん辛く、しんどくなってきたんで、結婚を機に農業をやめて、この家を出ました。それで僕も、畑からちょっと落ち着こうということで、アルバイトをはじめました。バイトをしながら、ちょこちょこ畑をする感じで。それまでは「米屋市衛門」という名前だったんだけど、「米市農園」に名前をかえて、それが僕がやっていくスタート。

――それが何年前ですか。

僕が19歳のときだから、8年前。はじめの2年間はバイトをしながらやっていました。

自然農だけじゃやっていけなかったので、耕した有機のやり方と、二本立てでやっていました。それでも、有機のやり方でも、無農薬で野菜を作るっていうのは、本当に難しくて、少しずつ、少しずつでした。いまでも、完全に耕していないか、機械を使っていないか、っていうとそうじゃない。畑に関しては、だいぶ自然農の部分が増えてきたんだけど、まだ全部じゃありません。

はじめの2年間は野菜販売もやっていました。ピザ屋が5年前からはじまりました。WOOF(農的ホームステイ制度)が6年前。和棉組がはじまったのが4年前。3年前に生産組合をはじめて、去年「紀州農レンジャー」に名前を変えました。

いまは、米、大豆、麦、棉、旬の野菜、全体を合わせたら二町歩の畑と、草とともに生きています。4月から10月末まで、土日祝日にピザ屋を営業していて、体験農業は随時。イベントは3日に1回は何かしらあります。

――イベントはそんなに多いんですか。

多いですね。水力発電について勉強しようとか。東京からアーティスト来るからライブしようとか。地元のお祭りに参加したり。アフリカンミュージックも僕らはやっているので、演奏会とか。移動式ピザ屋で、マーケットに行ったりとか。

――いろいろですね。

つい一ヶ月ほど前からはじまったのが、和歌山市での一人オーガニックマーケット。仲間が集まったらいいんだけどね。シャッター街の商店街で、毎週月曜日、一人でマーケットをしてる。一人デモもやってる。駅前で、原発のことについて、みんなに立ち止まって考えてもらいたくて。

――そもそも農業以外のことをしようと思ったことはありませんでしたか。

もとをたどって? そうですね、僕の場合ちょっと特殊だったんだけど。農業からは逃げたかったですね(笑)。もうこの家がしんどすぎてね。ずーっと伊川くんのところに行きたかった。お茶やって畑やっていいなあって。 でも僕は、逃げたかったけど、逃げる勇気がなかったんですね。すごい優柔不断だし。動けませんでした。だから、そのはじめは、何かしら僕がここにいる理由を探していたと思う。そのために勉強をして、あっ環境問題大切やからここで農業してるんやとか、あっ体が大切やから農業してるとか、そういう理由付けを探していたと思う。そのはじめは。僕なんぞが就職できるなんて、とも思ってたし。でも、ある程度かたまってきたら、やっぱりほんとに大切なことやし、やっぱり畑なんかな、って思えた。大借金も抱えて、もうしんどいわってときもあったけど、それ以上に踏み出すことは出来やんかったね。うん、出来ませんでした。

――和歌山に自然農の仲間はいますか。

毎月、種の交換会というのをやっていて、事務局は僕じゃないんだけど、うちで毎月開催してます。それで、自然農の仲間が和歌山にも集まっています。来るのはだいたい10人くらいで、一品持ち寄りなんだけど、それが豪華なんですよ。毎回。大好きでね。自分の畑で出来たものを料理して持ってくるから、もう美味しくて。その人たちは、生産組合(紀州農レンジャー)には入らないんですよ。生産組合も、種の交換会には来ないんですよ。和棉組もかぶる人は少ないかな。交わらないんですよ、うん。なんでなんでしょうね(笑)

(了)